長崎市動画・写真集

愛と天使の街・長崎。坂の街。港街。色々な視点で長崎市をカメラに収めます。

このサイトは少しずつ更新されていきます。

ボクはそれが楽しみでみんなも楽しみにして下さい。

まだ中央寄せも、リンクも出来てないでいて申し訳ないのですが

今度はランタンフェスティバルが今月末から始まりますので沢山撮って来ますから楽しみにしていて下さい。

ボクはカメラとハンディカムが好きで、ホームページの飾り付けは得意でありません。

とにかく、撮りまくります。それからどうぞ長崎に遊びに来てください。

それからボクは初めての自宅サーバ作りと言うことで、目茶苦茶難しいのです。

公開がいつになるかわかりません。大変ですけど頑張ります。

私事が多くなりましたが是非みてください。               平成29年1月7日

  • 長崎市の地図(Google Map)

  • WORDPRESS
  • レディース・フアッション大セールス(素敵なレディに変身できる。)
  • 高橋プログラムOffice
  • あじさいまつり
  • 出島
  • グラバー園
  • 帆船まつり1
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  • ランタン・光景
  • ランタン・皇帝パレード
  • ランタン・中国雑技
  • ランタン・龍踊り
  • 長崎くんち
  • 特大画面で詳しく見たい方は
  • 動画もあります。

  • 雲仙地獄街・動画
  • 小浜温泉街・動画
  • 風頭公園・動画
  • 出島・動画
  • グラバー園・リンガー邸、オルト邸
  • グラバー園・自由亭
  • グラバー園・グラバー邸
  • 長崎水辺の森公園と豪華客船。
  • 長崎オランダ坂
  • 長崎新地中華街
  • 思案橋でThe Rolling Stones 「Bitch」熱唱。
  • 思案橋案内1
  • 思案橋案内2
  • 思案橋案内3
  • 長崎市街地を流れる中島川の散歩記録。
  • 長崎市街地を流れる中島川の散歩記録2
  • 長崎市の若宮稲荷神社、龍馬のブーツ、亀山社中、草野線香店、亀山社中資料展示場。
  • 黄昏時の長崎。
  • 長崎市、中島川の上流、プチ探検
  • 中島川の上流、長崎市、郊外、シーボルト邸跡、体調不良。撮影をサボっている。
  • 中島川の上流、長崎市、郊外、大失敗、道路ばかり映している、鳴滝、疲労している。
  • 登るので精一杯。ドーシヨーもない撮影。階段ばかり映している。大失敗。息切れ。
  • 山道ばかり映してどうする。大失敗。ダメ人間。
  • 唐人屋敷跡、土人堂、天后堂、観音堂、ナレーター元気無し、福建会館。
  • 中島川支流、片渕、西山、長崎大学経済学部
  • 中島川の上流、片渕、西山、長崎大学経済学部。
  • 中島川上流、退屈な道路、何もない、寂しい公園、袋小路、目的地到着か?
  • 高速道路インター付近、西山水源地到着
  • 浜町の中心、歯磨きイベント、吉宗
  • 蛍茶屋、中島川上流、バッテリー切れ、シャッター通り、墓地、松嶋稲荷、国道34号線。
  • 長崎市奥山地区、ダム、夕暮れ、不法侵入、暗くて見えなくなる。
  • 蛍、暗闇、危険、この道はいつか来た道、山を降りる勇気、引き返す。
  • 長崎港出発前の1コマ。
  • 船旅、豪華客船と遭遇。
  • 伊王島、船内の様子。
  • 一人ぼっちの釣り人、意気込み。
  • 高橋耕造、ルアーコレクション
  • 釣果はいかに?
  • ひとけのない海水浴場を散歩する。
  • 800円のスーパー高級レストラン。
  • 高島炭鉱博物館。
  • 高島フェリー発着場の様子。
  • 高島のおみやげ品店。
  • 高島港出港前のフェリー内の様子。
  • 高島港から大波止ターミナルまでの船旅。
  • 長崎港、豪華客船と遭遇、その名は「COSTA FORTUNA」、大波止ターミナル到着。
  • パフェアンドレストラン「ハワイ」、出島
  • 太鼓リール修理成功なるか?
  • 部屋内を撮す。
  • ペンギン水族館の近く網場。
  • 茂木地区で足場の悪い撮影。何が映っているのかわからない。失敗。
  • 網場を諦め伊王島へ。
  • 午後7時半。この日は結局ボウズだった。
  • 朝5時50分のフェリーに乗り遅れ、時間つぶし。
  • 三菱長崎造船所・香焼行き「ぐらばあ号」。
  • 釣りに入る前。
  • 外道が釣れた。
  • 伊王島。フェリー待ち。探索。
  • ラグビー部のマネージャー・宝田明の娘・児島未散。
  • ミス成城はラグビー部のマネージャー。
  • ワンピースファン
  • SUPER COMPUTAR
  • 真面目な長崎学
  • メモリーが32GBだとどうなる。
  • 長崎平和祈念公園とその周辺1。ナレーションが入っていない。失敗。
  • 長崎平和祈念公園とその周辺2。ナレーションが小さい。失敗。
  • 長崎平和祈念公園とその周辺3。
  • 長崎平和祈念公園とその周辺4。
  • 長崎平和祈念公園とその周辺5。
  • はじめに

    一寒村であった長崎が西欧との文化交流の窓としてポルトガルに開かれたのは1570年(元亀元年)であった。

     長崎港は鶴の港と呼ばれ、三方を深い緑の山に囲まれ、港外には島々を有する天然の良港、風光明媚な港である。

    また,人々は長崎を「歴史とロマンの町」と言い、そして再度訪れたい町であるとも言う。

     1567年(永禄10年)イエズス会のアルメイダ修道士が長崎を訪れてから、キリスト教が盛んになる。

    1587年(天正15年)には豊臣秀吉の宣教師追放令が出て、長崎は没収され、天領となった。

    その後、代官・奉行などが任命され、1597年(慶長2年)には二十六聖人の西坂における殉教があった。

    にもかかわらず、その後キリシタン文化の最盛期を迎える。他方、仏教勢力も進出して、寺院も建立されるようになる。

    また、南蛮船・唐船による貿易も行われるようになり、町人出身の町年寄や乙名によって長崎の町の行政が行われるようになる。

     1613年(慶長18年)の幕府による大禁教令は、長崎にキリシタンの一掃をきたした。

    その後、中国人による興福寺・崇福寺・福済寺などの支那寺が建つ。1636年(寛永3年)には人工島の出島を造成し、ポルトガル人を収容した。

    1639年(寛永16年) ポルトガル人の追放によって、1641年(寛永18年)には平戸から移されたオランダ人が、

    その跡にオランダ商館を建て、オランダ貿易は日本では長崎のみに限定されるようになった。

     1663年(寛文3年)の大火は,長崎に破壊的打撃を与えたが、急速に復興し、貿易の利益も増え、人口も増大し、

    中国文化の影響を受けるようになった。

     1702年(元禄15年)には、新地が埋立て、造成された。このように、狭い土地の長崎の歴史は、以後埋立ての歴史といった一面もある。

    1714年(正徳4年)に、幕府は貿易による金・銀・銅の流出を防ぐため、オランダ・中国へのそれらの流出を制限したので、以後貿易は縮小、

    下火となって幕末に至った。

     この貿易の縮小期には、オランダ通事によって長崎には洋学が抬頭し、幾多の英才が出て、医学・天文学・地理学・

    博物学などの研究をめざして、日本全国の学究の士が長崎を訪れたのであった。

    また、外国人の学者-シーボルト、ケンペル、ツュンベリーなども長崎を訪れた。

     1855年(安政2年)には海軍伝習所が開かれ、1857年(安政4年)には飽の浦に長崎鎔鉄所が建てられ、

    1860年(万延元年)には小島に養生所が建てられ、近代医学の基礎が作られ、将来の長崎大学医学部へと進展する。

     このようにして、長崎は中国・西洋の文化と長年にわたって接しつつ、独特の文化を形成し、エキゾチック長崎として、

    明治・大正・昭和と進んでいくのである。

    長崎は江戸時代初期までは、どんな土地だったのかほとんど知りません。

    豊臣秀吉のキリスト禁教令で26聖人が現在の長崎駅前の丘で処刑された事ぐらいでその前のことは文献を読んでいません。

    江戸幕府が鎖国政策を採り、結果的にオランダと中国との貿易を長崎だけに限った事で、長崎は異国情緒のあふれた町へと

    変遷していく歴史をたどりました。

    長崎の港が土地続きであったなら、船の行き来する日本唯一の玄関口としての役割は持たなかったでしょう。

    長崎港が長崎を作り続けたといっても言い過ぎではありません。

    長崎は他の都市と同じように都市開発を続けてきました。

    それでも古い西洋と中国の科学・文化等の影響を受け続けてきた長崎は、もともと個性的な地形を持っており、

    そのコラボレーションで独特の味を持った都市になりました。

    正直、このホームページでは長崎のほんの1パーセントも紹介できないと思います。

    でも少しずつ編成・追加をしながら「長崎の事ならこのサイトが一番よく分かる。」と思われるサイトにしたいと思います。

    宜しくお願い致します。


  • 長崎市で解るオモシロ疑問の数々1
  • 長崎市で解るオモシロ疑問の数々2
  • 長崎市で解るオモシロ疑問の数々3
  • 長崎市で解るオモシロ疑問の数々4
  • 長崎市で解るオモシロ疑問の数々5
  • 広助の「丸山歴史散歩」

    山口広助

    http://www5d.biglobe.ne.jp/~hirosuke/

    【長崎新聞「うず潮」連載(平成15年4月22日~平成17年3月4日)】

    1.ほんとうの丸山

    長崎は貿易で栄え隆盛を極めていた。奉行所を始めとする多くの役所と、油屋、鍛冶屋、銀屋、 麹屋などといった職人で町を形成し各町ごと様々な役割を担っていた。

    また、多くの貿易商人たちが上方などから集まった。

    このような背景の中で「丸山」は人をもてなす文化が花開いた。このもてなしの場所が花街という訳です。

    このもてなしの文化は女性によって生み出され、女性を中心とした遊びが遊郭を形成するのです。

    長崎の歴史の大きな裏舞台に「丸山」あり。長崎に「丸山」なければ当時の繁栄はなかったでしょう。

    江戸時代、その貿易の盛んな長崎で重要な商談、会合、打ち合わせなどを行うには、料亭や遊郭が立ち並ぶ「丸山」に行かざるを得なかった。

    2.続・ほんとうの丸山

    「丸山」とは丸山町と寄合町の総称で、寛永19年(1642)に市内に散在した遊郭を「丸山」に集めたことに始まりました。

    遊郭を一ヶ所に集めるということは、町の統制を図る上でも重要なことでした。

    それから日本三大遊郭の一つに数えられるほどの活気を呈し、ました。

    しかし、316年後、昭和33年(1958)売春禁止法によって、内外に名を轟かせた花街もその灯火を消し、

    今ではその賑わいは夢の跡となりました。

    3.エンターティメント街

    遊郭は売春宿とは違います。Entertainment areaがぴったりの英訳だと思います。

    井原西鶴の言葉に、「長崎に丸山といふ所なくば、上方の金銀無事帰宅すべし。ここ通ひの商ひ、海上の気つかひの外、

    いつ時しらぬ恋風おそろし」

    西鶴は一度も長崎に来ていないが、それでも丸山のことをこれほど表現していることは、いかに多くのドラマが丸山で生まれていたかが判ります。

    「長崎に丸山という街がなかったらば、稼いだ金銀が無事に上方に流れるというのに、長崎に来た商人達は航海の心配のほかに、

    いつ始まるかわからない遊女との恋風がとても恐ろしい。」

    4.国際的花街 丸山

    出島オランダ商館 寛永13(1636)年 約4000坪

    唐人屋敷 元禄2(1689)年 約8000坪

    丸山 寛永19(1642)年 約10000坪 遊郭74軒 遊女1,443人

     

    当時の長崎の人口が6万人程度からその盛況ぶりがうかがえます。

    遊女、特に太夫にはそう簡単にはなれません。歌舞音曲、華道、茶道、香道、読み書きまで幅広く教養に長けていなければなりません。

    また容姿、容色が人並み以上と決められていました。

    ランク1 日本行き

    ランク2 唐人行き

    ランク3 オランダ行き

    とランク分けがあった。言葉が通じなかったり、乱暴を働いたりする者がいて、とても悩まされたそうです。

    しかし、身分や徳のある者は、まるで妻のように扱い、恋が生まれることもありました。 ただオランダ屋敷や唐人屋敷からは簡単には出られません。

    日本で唯一海外交流のあった花街が丸山でした。また丸山は長崎貿易に欠かせない重要な潤滑油でした。

    5.これからの丸山

    なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」で直木賞。テレビ、映画、芝居で丸山が注目を浴びる。

    行政も丸山を観光地の一つとして位置づける。

    人身売買的な側面と、長崎もしくは日本における文明開化の裏舞台であったと考える。

    6.梅園身代わり天満宮

    元禄時代、乙名(おとな=今の町内会長)の安田治右衛門は、現大宰府天満宮に参詣に行き、仏師に天神様を彫ってもらい、

    それを丸山の自宅にお祀りし日々熱心にお世話をしていたという。

    丸山で大暴れしていた梅野五郎左衛門を乙名という立場から捕え処罰した。

    それを逆恨みした五郎左衛門は、安田治右衛門を丸山の二重門(丸山町交番前)で待ち伏せし、左脇腹を槍で突きえぐった。

    仕留めたと思った五郎左衛門は自宅で自害。刺された治右衛門は直ちに屋敷に担ぎこまれた。しかし、治右衛門は傷一つなく、

    しばらくして息を吹き返した。

    これは日頃から信仰していた天神様のおかげと庭の祠(ほこら)に出向くと、祠の扉が開き天神様が出てこられた左脇腹から血が流れていた。

    これは天神様が治右衛門の身代わりになったということ。

    こうして治右衛門は、新たに天神様の加護を認識し、長崎奉行より丸山の梅園の地をもらい受け社殿を築き、この天神様をお祀りした。

    そして奉行より梅園天満宮と命名していただき、乙名職を辞め神主となって生涯この天神様をお世話したという。

    なお、第二次世界大戦中、出征を命じられた丸山の者は必ずここで祈願し、そして全員無事に帰還した。最近でも身代わりの話は絶えない。


    7.大徳寺から佐古へ

    江戸時代、真言宗青龍山慈眼院大徳寺があった。一説には唐人屋敷の鬼門を防ぐために作られたという。明治時代に廃寺となり、

    現在の梅ヶ崎神社に変わった。

    大徳寺上手の佐古には、江戸末期の文久元 (1861) 年日本初の医学校が建てられた。

    これが長崎大学医学部の前身「小島養生所並医学所」であり日本の近代医学に大きな貢献をした場所である。

    その後小島養生所は浦上に移り、明治三十九(1906)年佐古小学校が建てられた。

    大徳寺公園には、旧大徳寺の古い石灯ろうや手水鉢、数少ない長崎府時代の鳥居、旧佐古招魂社に奉納された砲弾、天然記念物の大楠、

    梅ヶ枝餅。多くの歴史が眠る場所。

    8.天神さまウォーク・天満宮二十五社巡り

    「天神さま」は、もともと雨を降らす神様のことで、農耕の神様を指していた。

    現在は、天満宮にお祀りされている菅原道真公を指すようになりました。

    学者であり、政治家であった彼は、894年、無実の罪で、京都から九州大宰府に左遷されました。

    それからというもの、京都では道真公の怨霊と信じられるたたりのようなものが起こり、藤原時平らは雷の直撃で無残な死を向かえます。

    このいきさつによって、いつしか道真公を雷神として奉るようになったのです。

    一方、道真公の文化的学問的才能を尊敬する人々は学問の神様として奉り、今では後者のほうが有名で、

    雷神としては農耕のシンボル牛の像だけが当時を物語っています。

    天満宮は全国に1万件以上お祀りされている日本人に大変身近な神様です。この章の題名は、

    江戸時代に行われていた天満宮巡りの復活の意味です。

    9.梅園の梅美

    平安時代初期。日本は遣唐大臣・菅原道真公の進言で唐風文化から国風文化へと移ります。

    以降日本に平仮名が生まれ、古今和歌集や源氏物語など和の文化が開いていきます。

    この大転換を進めた道真ですが、唐風文化を完全に否定したわけではなく、漢詩なども受け入れた。

    また、唐風文化の象徴である「梅」を特に大切にした。

    梅は桜と違い、花期が長くほんのりと香る梅の香りは、学問や芸能、至誠の神といわれる天満宮にふさわしい。

    10.長崎のお遍路さん

    弘法大師とは奈良・平安期の高僧・空海をいいます。彼は、遣唐使船で、中国から新たな文化を日本に持ち込み大きな影響を与えました。

    「弘法大師」という名前は空海の没後、天皇より与えられ、人々によって次第に神格化され後の四国八十八ヶ所巡りの成立につながります。

    この“四国八十八ヶ所巡り”は日本各地に存在し、長崎や茂木にもあります。

    11.インゲン豆

    隠元隆琦-福清市漁渓の黄檗山萬福寺(古黄檗)の僧。承応3(1654)年、日本の仏教発展・文化向上のため長崎へ来る。約1年間の長崎滞在。

    江戸で4代将軍家綱に謁見。京都宇治に広大な土地を賜り、黄檗山萬福寺を開きます。

    隠元禅師は建築や絵画、料理に生活などあらゆる最新文化を中国からもたらし日本の発展に尽力した偉大な人物です。

    インゲン豆は荒廃した土地でもよく育つ野菜で、隠元禅師はいわば命の恩人ともいえる。


    12.平和記念像のモデル

    1955年、北村西望氏作。特にモデルはない。得意な男性の健康美を彫った。

    平和記念像の裏には、彼の平和への願いの言葉が刻まれている。

    国会議事堂の板垣退助像も彼の力作で昔の国会議員たちから多くの絶賛を得た。

    このホームページを見て頂きありがとうございます。できるだけ写真を織り交ぜて長崎市の雰囲気が

    分かりやすいように編集しました。長崎にはこの本で唄っていること以外にも、文化的な建造物や長崎ならではの食産物もあります。

    長崎の歴史にはもっと奥深いものがありますが、一部だけ著述しました。他にも多くの皆さんにお伝えしたい題材があります。

    長崎には、日本で初めてのものが多くあります。

    少しだけ例を挙げると、江戸時代、海外文化を取り入れる唯一の玄関口だった長崎はボウリング、バトミントンの発祥の地で

    写真、西洋活版印刷術も長崎から伝わりました。また、日本で初めて機関車を走らせたのも長崎でした。

    そして、まだまだ砂糖などの伝来と初めて伝わってきたものはたくさんあります。

    文化・文明は、長崎から全国へ文化は伝わっていったのです。

    明治時代以降は、他の港も開港され長崎独自に伝わった文化は次第に失われていきました。

    しかし、江戸時代初期からの海外の文化が伝わったのは長崎だけで、江戸時代初期からの歴史を学ぶには長崎を除いては考えられません。

    特に蘭学・医学を全国の若者が学びに来たことは、長崎の自慢になる歴史です。

    しかし、過去の栄光にとどまらず、日本、世界を先駆けて世の中に役立つ素晴らしい都市であり続けて欲しいものです。

    私もその手助けになることをお手伝いができたら、と思います。

    このホームページでは美しいと思った写真を添付しており、それにコメントを入れ、細かい知識的なことは省きました。

    写真はできるだけ綺麗に写しましたが、実際に長崎に是非お越しください。きっと楽しい思い出になると思います。

    参考文献  NHK国宝の旅                NHK様

          長崎を訪れた人々               葦書房様

       

          長崎歴史文化観光検定公式テキストブック    長崎商工会議所様

          長崎の歴史ものがたり  

          長崎円形劇場                 長崎新聞社様

    広助の「丸山歴史散歩」 山口広助様【長崎新聞「うず潮」連載